テーマ :「真宗十派と鯖江本山誠照寺」               鯖江商工会議所 専務理事 藤井 智正

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  • 浄土真宗の真宗十派

『真宗十派』とは

・「浄土真宗本願寺派」「真宗大谷派」「真宗高田派」「真宗仏光寺派」「真宗興正派」「真宗木辺派」「真宗山元派」「真宗出雲路派」「真宗三門徒派」「真宗誠照寺派」です。血縁関係、師弟関係からなる系譜によって受け継がれ、様々な歴史的背景から、現在では主に十派に分流されました。(系統図

・浄土真宗本願寺派が約784万人、真宗大谷派が約734万人、浄土宗が約602万人となっています(文化庁・令和3年版「宗教年鑑」より)。次いで曹洞宗、日蓮宗、天台宗、真言宗各派などが続きます。

・「越前真宗四カ本山」とは、越前(福井県)にある真宗の四つの本山をいいます。出雲路派毫摂寺(越前市清水頭町)、誠照寺派誠照寺(鯖江市本町)、三門徒派専照寺(福井市みのり)、山元派証誠寺(鯖江市横越町)です。

・覚如(かくにょ)は、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての浄土真宗の僧で、浄土真宗本願寺派第3世宗主(そうしゅ)・真宗大谷派第3代門首・真宗木辺派第3代法主です。 <門主・門首・法主>

・浄土真宗本願寺派の8代目法主、「蓮如上人」浄土真宗・中興の祖です。浄土真宗が現在のように真宗大谷派と浄土真宗本願寺派に別れた理由については、1570年から1580年までの織田信長と、現在の大阪城の場所にあった石山本願寺との争いまでさかのぼります。この争いは石山本願寺一揆、石山合戦などとも呼ばれるもので、この時、石山本願寺内では、信長と和睦するか、徹底抗戦するかで意見が対立しました。和睦を主張したのは、石山本願寺の宗主であった顕如と、顕如の三男の准如。徹底抗戦を主張したのが、顕如の長男の教如です。

結局、最終的に顕如が和睦を決め、石山本願寺は信長に明け渡されることになりますが、この時の対立がもととなり、顕如は浄土真宗の宗主の座を長男の教如ではなく、三男の准如に譲ることとなり、顕如と教如の対立は決定的となりました。その後、信長が本能寺の変で討たれたのち、和睦を決めた顕如は豊臣秀吉から七条堀川に土地の寄進を受け、御影堂と阿弥陀堂を建築しました。これが現在の西本願寺です。

一方、徹底抗戦を主張した教如は、徳川家康に接近し、七条烏丸に寺の寄進を受けました。これが現在の東本願寺です。

⇒ 鯖江本山誠照寺(真宗誠照寺派)

・「誠照寺史」(写真)

・上野山誠照寺(うわのさん じょうしょうじ)の起源は、承元元年(1207年)親鸞聖人が越後へご配流のとき、越前上野ヶ原(うわのがはら)の波多野景之の別荘にご滞在になり、弥陀本願の要法を説かれた、いわゆる、初転法輪の聖地に始まるとされています。景之は念仏の行者となり、のちに空然(くうねん)と称したと伝わっています。現在ではこの地を「車の道場」と称しています。

・その後景之は聖人の第五子道性をこの車の道場にお迎えし、その息男、如覚上人とともに教化活動をされたといいます。如覚上人の代に車の道場の地が手狭となったので、波多野景之の寄進により現在の地に移り、時の帝、後二條天皇より「真照寺」の勅額を賜ったと伝わっています。

・道性・如覚両上人は正信偈・和讃をよりどころとし、勧化章(かんけしょう)を作って教化にあたり、念仏の み教えは、越前はもとより加賀・能登・越後・美濃へと広まり、「和讃門徒」といわれました。永享9年(1437年)第七代秀応上人の代に後花園天皇(1428年~1464年)より改めて「誠照寺」の勅願を賜わりました。

・室町時代は越前でも長禄合戦をはじめ戦乱が相次ぎ、1500年代後半には本願寺率いる越前一向一揆勢との激しい戦いや羽柴秀吉の兵火による伽藍の焼失、江戸時代はじめの寺院法度をうけ、上河端常楽寺や誠長寺との本山争いなどで宗勢は一時大きく衰微しました。しかし中興上人といわれる第十五代秀諴(しゅうかん)上人が入寺され、閻浮檀金手引阿弥陀如来の本尊としての勧請により、讚門徒誠照寺教団として一躍再興されました。

・江戸中期、第二十代秀実上人の頃には隆盛を極め、後年、摂家二条卿を猶子家とする格式を得て、現法主、二條秀瑞猊下(にじょう しゅうずい げいか)まで三十代の永きにわたり、真宗本願他力念仏の根本道場として伝灯相承され、今日に至っています。現在は宗教法人「真宗誠照寺派」の本山として、鯖江市を中心とした真宗門徒のよりどころであり、「誠市」などいろいろな催しを通して、地域社会に根差した本山となっています。